帰途

 駅に降り立つとむわっとした不愉快な空気に迎えられる。会社がある場所より二度か三度気温が高く、じっとしていても汗がじんわりとにじみだしてくるような湿気を伴った濃密な空気、そして潮の香。海から遠くないこのまちは、夜になると潮の香がきつくなるが、僕はいまだにそれに慣れることができない。生臭い、生き物のにおい。海辺で嗅ぐそれは強い風のせいでほとんど分からないまでに薄められていて心地よくすらあるのに、風を失ったこのまちのなかでは、風に含まれる不愉快さだけがぶちまけられていて、僕は思わず顔をしかめる。
 まちの中に滞留するひどく不愉快なにおいと、夜が更けても昼の名残を失わない気温がさらに不快感を増しているのだ。僕はあぁ、とため息をつきながら空を仰ぐ。ホームの上に白い月がかかっている。ひどく澄んで潔癖な光を投げかける月が覗き込んでいる。海の中を覗き込む子供のように、月がまちを見ている。そういう錯覚を覚えるほど、潮の香が濃い。
 白く濁った夜空にサーチライトが一筋のひかりを投げかけている。ただのパチンコ屋の宣伝でしかないはずのそのサーチライトはしかし、空をくっきりと分かち、何か明確な意思を持って誰かを導こうとしているようで僕は好きだ。一条の光の下を走り抜ける電車が明かりを落として過ぎ去っていく、その景色が僕は好きだ。窓の中に一瞬だけ映る人々の顔を見上げるのが、僕は好きだ。
 まっすぐな道のうえをぽつぽつとともる電燈が、頼りなさげに立っている。月のように清澄な静かな光ではないが、その代わり暖かみを持ったか細い光が帰り道を照らしている。昼になれば存在感が極限まで薄れてしまう電燈は、なぜ夜になっても所在なさげな光しか投げかけてくれないのだろう。
 そんなことを考えながら僕は帰途をたどる。かかとがアスファルトをとらえる感覚がけだるく疲れた足に響いてくる。重い。時々体は驚くほど重く、たった一歩を進むことですら億劫になる。
 この道をたどるようになってもうすぐ一年が経とうとしている。
 毎日毎日同じ景色を眺めながら、僕はぼんやりといろんなことに考えをめぐらせながら歩く。そういえば去年の今頃の僕は不確定な未来に対して怯え、慣れない毎日に疲れ、苛立ち、安定を失っていた。いつでも踏み越えられる境界線の上で時々舌を噛んで、痛みに呻いているような、そういう毎日だった。暗闇の中で、光があるような気がして追いかけては見失い、あるいは光だと思ったそれが幻だったことを知り、立ち尽くす。そんな毎日だった。慌ただしく夏はすぎ、秋が来て、僕はいつもなんでもないという風を装いながら怯えていたのだった。
 帰り道はただ前をまっすぐに見て、空を仰ぐ余裕もなかった。ただ毎日が精いっぱいで、全速力で、泣きたくなるほど美しく、同時に悲しくなるほど散漫としていた。サーチライトだけがいつもきっぱりと空を分かっていて、僕はそれを見上げながら帰った。


 彼は僕の目を見ていった。コードを書きたい?
 僕はうなずいて、書きたいですとはっきりと言った。彼が笑ったかどうか、僕は覚えていない。
 僕は誰かに呼ばれてその声の方を見、そしてまた彼を振り返った。そこに何を見たのか、僕はもう憶えていない。覚えているのはその日から僕がコードを書くようになったということだ。
 彼はいつも笑いながら、僕に指針を示して見せた。優しく諭すように、噛んで含めるようにひとつひとつ正確な言葉で、わかりやすく語ろうとする。僕はその一つ一つを受け取ることに精いっぱいで、時々大きな勘違いを犯したり、あさっての方向へ走りだそうとしたりもした。彼の言わんとすることを消化しようと頭を抱える僕を、彼はあせらせはしなかったし貶すこともなかった。ただ僕が黙りこめば時間を与え、僕がたずねればわずかなためらいの後に無尽蔵の優しさを僕に対して提供する。そういう幸せな日々があって、唐突にそれは途切れた。僕の上を平凡な日々が波のように押し寄せては引き、いつの間にか季節がめぐっていく。


 今日もまた、何もなかった。平凡で幸せで、退屈で、穏やかな一日が終わった。小さなアクシデントがあって、その解決があって、笑いがあり、怒りがあり悲しみがあった。
大きな変化はなく、しかし小さな変化が積み重なって、物事は前へと確実に進んでいる、そういう確証を持つことができた。いつもの、些細な、日常。
 僕はうつむいて笑う。影がアスファルトの上を延びては縮み、伸びては縮む。前にあると思えばまた後ろに消えてゆき、そしてまた前に現れる。繰り返していく日常のように、規則正しくその動作を繰り返す。明日もまたきっとそうだろう。僕が生きて行く限り、そういう日々が続くのだ。疲れていても落ち込んでいても、緊張していても、浮かれていても、雨が降るように、夏が来るように毎日はただ平坦に続いていく。僕はそのことをひどく幸せに思う。
 さようなら、と何とはなく僕はつぶやいた。
 幸せだった今日に。僕が失ってしまった昨日に。あたたかいおもいに。いくつもの忘れられない記憶に。そして笑う。笑おうとする僕の鼻を刺激したそれを僕は潮の香だと思った。
頬を濡らしたそれを僕は汗だと思った。頼りない街燈の光の輪郭がぼやけて、あぁ、と僕は呻く。脚がゆっくりと前に進むのをやめる。立ち尽くした僕の前に長い影が差している。光はもうずっと後ろの方へ行ってしまって、僕には届かないのだ。僕はそのことがわからなかった。そして気付いてしまったのだった。

 あの、サーチライトよりもきっぱりと、月の光よりも穏やかに、そして街燈の光よりも優しく僕を照らした光を僕は失ってしまった。
 あの光は二度と僕を照らさないだろう。僕はまた薄明の中をさまよって明けていく早朝の空を仰ぐのだろう。危うい均衡の中で保たれていた美しい夜明け直前の空に焦がれながら、一歩一歩進んでいける確証を胸に抱えて。あの場所に僕はいない。だから、あの頃と同じ光は差さない。ただそれだけなのに、僕はひどく悲しい気持ちになる。
 僕は暗闇の中をさまよいながら光を頼って少しずつ明るい方へ進んできた。ひかりは僕を導き、僕はそれを信じ、ただがむしゃらに前へと進んだだけだった。夜は明け始め、僕は薄明の中で目をこすりながら影と闇の境目を見極めようとする。光が増え明るくなり、そして僕を導いていた光が少しずつ見えなくなる。見えなくなってしまう。

 さようなら。
 立ち尽くしたまま僕は白い月を仰ぐ。こちらを覗き込んでいるような優しい光を投げかける月を仰ぐ。
 さようなら。あなたのことを本当に。