忘却という防御

 忘却がいつから始まったのか、今となってははっきりしない。昨日と同じ失敗をしたらしくひどい罵声を浴びせられながら、父は背中を丸めて大根を切っている。今年に入ってから老けた。みるたびに皺は濃くなっていく。張りつめる空気の間を泳いで庭に下りる。
 怯えた様子で犬が駆け寄ってくる。家の中の不穏な空気に敏感に反応して、中を覗き込んでは撫でてくれと身体を寄せてくる。不憫に思ってその小さな背中を丁寧に撫でてやる。
 どこで生まれたのかもわからない犬である。見つけたときは、処分されるのを待つだけの身だった。そんな犬だからなのか、空気を敏感に読んでそして甘える。撫でてやると安心してもたれかかってくる。それでも耳は動き続けている。怯えているのだ。


 父はただのお人よしだった。そういわれ続けてきた。小さい頃から身体も小さく、病気がちで、頭もよくなく、要領も悪くて運動も苦手だった。だからいつもいじめられてきて、そうするうちににこにこすることを覚え、誰かの言おう通りにしてれば世の中を泳いでいけることを知った。考えることは苦手で、単純作業を丁寧にこなしていくことが得意だった。その生き方を重宝する場所もあった。時々酒を飲んで酔いつぶれてくだを巻き、だがそれだけだった。名もなきひとの、平凡な人生。恐らく傍からみれば家庭を持ち、家を買い、それなりに裕福で、子供を一人も死なせることなく大学まで出してやり、幸せな人生だといわれることだろう。でも実際は大きくない背中をいつも丸めて、罵倒や怒声をやり過ごしてきた、その姿を見ても人は同じことを言うだろうか。
 いつからか、昨日のことを覚えていられなくなった。失敗したことを忘れるようになった。忘れたことを忘れるようになった。彼の頭の中には幸せな記憶しか残らなくなった。たくさんの罵倒や怒声の全てを忘れることをいつの間にか選んだのだ。
 その人生について思う。その人生は果たして幸せだったのだろうかと思う。いつだって平穏は手に入れられなかった、いつだって悪意を向けられていた。それでも生きてきた、生きるしかなかった、笑う以外に手段を持たなかった。やり過ごす以外に術を持たなかった。それももう終わるのだ。全て忘れていく。忘れていってしまう。ずっと望んでいたただ幸せなだけの毎日が少しずつ準備され始めている。


 私にもたれて安心している犬がびくりと身体を動かす。その筋肉の動きを掌に感じて声をかける。大丈夫だよと、声をかける。おまえは幸せだろうか。大丈夫だよと声をかけてくれる人がいるおまえは果たして幸せだろうか。
 春の近い空を見上げる。去年の春、何をしていただろうかと考える。それから犬に話しかける。一人ごちるでもなく、しかし返事を期待するでもなく、ただ話しかける。私が一人だったとき、一人で冷たい空を見上げていたとき、寒さに震えていたとき、おまえがいたならまた少し違った今があっただろうかと考えながら、その身体を撫でる。おまえと後何回くらい桜を見に行けるのかな。私はもう戻ってこないかもしれない、おまえを忘れるかもしれない、それでもその怯えた瞳を思い出せば身体を引きずりながら戻ってくるかもしれない。もう後数回もないだろう、毎年見上げる桜の木の下で、今年は何を思うのだろう。


 みな忘れていく、みんな死んでいく。だから人は生きていけるんだ。