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ももさか爺さん

 青い煙が空気の中で身をくねらせている。
 祖父は寡黙な人である。語り始める前、祖父はたいていタバコに火をつける。そのタバコが半分まで減るころになってようやく重々しく私に桃太郎の話は聞いたことがあるか、と聞く。私は首を横に振り、毎回否の意を示すのである。それが二人の暗黙の了承なのだった。
 ここは山深い森の中である。視界は青い峰々に遮られ、僅かな土地に村人たちは田畑を耕し、暮らしている。穏やかなせせらぎが村に注ぎ込み、夏になるとモザイク状にさざめく川面に子どもが飛び込んでは喚声を上げる。だがこれから十年も経てばここもきっと限界集落となるだろう。もう少し山合にあった村から引き上げてきた人々がここに移り住んだだけなのだから、末路は同じだ。
 古い家の中からは湿った木の匂いがしている。私は勝手口の上り框に腰掛けて、土間を眺めている。背後には囲炉裏があり、祖父はいつも縁側に背を向けて煙草をくゆらせている。私をみると祖父はいつも面倒そうな顔を向け、はよ遊びにいってきんさい、というのが常だったが、その話をする日はたいてい訥々と他愛のない話ばかりして時間を長引かせるのだった。
 外からキジバトのなく声がきこえている。祖父は口にタバコをくわえたまま、震える手で傍らの包丁を取り上げた。薄暮の中、鈍色の光が彼の指先を照らしている。
「わしの、爺さんが子供の頃にな……」
 刃をためつすがめつ眺めた祖父は目の前の砥石に手のひらで水をかけ、慎重に刃を押し当てた。タバコは相変わらず咥えたままである。
「えらい桃が流れてきよってな、それで爺さんの婆さんが爺さんをその桃に詰めて川に流しよったらしい」


 ひどい日照りの年だった。田は干からび、泥がかちかちに固まって苗は全て立ち枯れてしまっていた。川の底を舐めるようにちょろちょろと水が流れているだけだというのに、桃など流れてくるわけがないではないか。
 桃が流れてきたというのは嘘である。いや、桃に乗せて流すという言葉が、暗に里子に出すということを意味していたのである。かくして彼は僅かな食料とひきかえに売り飛ばされた。その後八つになると同時に彼は奉公に出されたのだった。
「商家に出されたらしいが、なにがあったかはわしは知らん」
 外から犬が鼻を鳴らしている声がきこえている。となりの白い犬だ。いつも餌をねだって惨めったらしい声で鳴いているが、飼い主がそれに応えているのを見たことはなかった。ずいぶんと鼻がいい犬らしいが、飼い主の思うように地面に埋まっている宝の在り処を示さないからだ、と祖父は呆れたように顔をしかめて言う。
 顔を上げた祖父はしばらく犬の鳴き声に耳をそばだてていた。囲炉裏にかけた鍋からはくつくつと芋の煮える音がきこえている。
「なにをしとったかは聞かんが、戦が来た時の話だけはした。奉公に出とる間に町に戦がやってきてな」
 深く沈み込むように息を吐いて、祖父は規則正しく手元を動かしている。私は腰をあげ、囲炉裏端へと這い寄った。惨めったらしく鳴く犬の声はもの悲しく、長い間聞いていたいものではなかったからだ。
「海の向こうには鬼がおって、それを倒す戦だったらしい。男らはみぃな志願したんそうだよ、鬼が盗み蓄えた金銀財宝があって、勝てばそれをわがもんにできると、こうな、貧しいもんほど先を争って戦地へいきよったらしい」
 ひときわ甲高い悲鳴を上げて犬は押し黙った。私は闇に顔を巡らせ、それからまた炭火に視線を戻した。祖父はかすかな光の中で、刃の具合を確かめている。タバコは吸い終えたのか、口をへの字に結んでなにも語りだす気配がなかった。私は居ずまいを正して鍋を覗き込んだ。
「煮えたかぁね」
「……ううん」
「まだか。ほんだらもう少し話をするかね」
 刃を裏返した祖父は再び砥石に手のひらで水をかけ、そっと刃を押しあてた。しょり、しょりとかすかな音が空気を削いでいる。
「えらい戦だったよ。人がばったばった虫みたいに死によって、だんに金銀もぶんどれなんでな。ほいで無一文で帰ってきて、婆さんを嫁にして、あこ生して――はやり病で死んだ」
 祖父は私以外にこの話をしないが、もし初めて聞いた人であれば祖父が一体何の話をしたがっているのかと思うだろう。全く救われない話だ。祖父の祖父、私にとって高祖父の人生は苦難続きだった。物心付く前に里子に出され、養家からは奉公に出され、奉公先では徴兵され、生きて戻ってきたと思えば病に倒れた。祖父も救われない人生であることに異論はないようで、いつもここまで来ると深いため息をついて緩慢にかぶりを振る。
 刃の様子に満足がいったらしい祖父は包丁を軽く水で濯ぎ、乾いた布で刃を拭き取った。そして、おもむろに胸ポケットからタバコを取り出す。私はあぐらをかいたまま、もう一度祖父が口を開くまでじっと待っている。
「……だんな話を爺さんの忘れ形見がこの村に戻ってきてしたそうだ。えらく鮮明な話だったらしい」
 青い煙は闇にとけいり、私はその輪郭をはっきりと描くことができない。
「ここに戻ってきたときは六つだかそれくらいだったらしいんが、まるでわぁが見てきたことのように話すだてな、みぃな驚いて……あの驚きようは……おかしかった」
 ぎこちなく頬が動き、しわの模様が変わる。黙り込んでいる私に微笑みかけた祖父は、ドーナツ型の煙をそっと空気の中に吐き出した。幼い頃、その煙をしげしげと眺めていた私のことを覚えているのだ。
「わしはあんなにいがんだ人の顔を今まで見たことがない。あぁ、ないな、あんなことは――どがしてそでに話せんのかとみな聞いたそうだが、親父は笑ってろくに答えんかった。まぁ答えるまでのことでもないが」
 わかるだろう、と祖父が言いかけた時、悲鳴ともつかない男の声が家の裏手から聞こえてくる。どたどたと騒がしく近づいてきた足音は勢い良く引き戸を開けた。悲鳴をあげた木の扉が壁にぶつかって黙りこむが、足音はそのまま土間に進み、そしてまた出ていった。私と祖父は顔だけをそちらに巡らせ、ややあって顔を見合わせる。
「……まぁいい。親父の婆さんはな、話を全部聞いてから呟いたそうだよ。もうえらい歳だったかんな、起き上がれもせんかったし、目もほとんど開かんくてな。声を聞くのもみな何年かぶりだがなんとか、とにかく長いこと聞いておらんなんだったらしいが、婆さんは言いよった――」
 落ち窪んだ眼窩の中で、容貌に似つかわしくない力強い光が閃いた。私はまばたきをしただけで祖父には答えなかった。答えるまでもないことだ、そう、祖父が言うようにこれは答えるまでもないことなのだ。
「なして戻ってきたんか、と――」
 なにか争う音が聞こえたあと、土に何かが倒れるような音が聞こえ、外は静まり返った。妙に今日はばたばたとした日だと思いながら、私は横目で祖父を見た。祖父は知らん顔をして、タバコの煙をはいている。
(どがして戻ってきたんか――ここは)
(ここはわぁの里じゃなかろうて)
 いけん、いけん、と老婆は早口で言った。半分暗闇に沈んだ家の中は、障子紙が透かす太陽の光が指し、せんべいのように平らな布団を照らし出していた。白髪ももうほとんど抜けた老婆は怯えるように頭を振り、闇の中に隠れようともがいている。
 突き刺さる視線に「私」は笑みを浮かべた。この頭の中に、その時の様子はしっかりと刻み込まれている。鼻孔をくすぐるかすかな黴の臭い、老婆は薬と据えた垢の匂いを漂わせ、怯える子供のように後ずさりをしている。異変を感じた家のものが「私」の腕を掴み、ばあさになんしとらだ、と詰問する。「私」は首を振ってわからないという。きっと、父と見間違ったんでしょう――
 だが私は父なのであった。父は私ではないが、逆はしかりである。父もまた、その父である。そうして連綿と記憶は共有され、すこしずつ新しい一頁が書き加えられていく。私たちはそんな種族であり、人を避けるようにしてこの山間の村に根を下ろしたのであった。高祖父の祖母は私達のひととは異なる在り方に恐れを抱き、里子に出したのだろう。無理もないことだ、人は理解出来ないものをおそれる。おそれるものを排除しようとする。従って私たちは人に紛れ、正体を隠し生きていた。青い峰々を眺め、巡り来る季節を愛し、夏の夕暮れ時に竹の葉を透かすように降り注ぐひぐらしの声を待ち焦がれながら、ただ穏やかに、静かに生きていただけだった。
「爺さんは戦の時の話を一つだけしてな……ひんどい戦場(いくさば)があって、目の前いっぱいが茶色でな。山もみぃんな焼き払われてしまいよったんろうなぁ、丸裸で草一つはえとらんかったらしい。爺さんはたまたま、谷(たん)にかくれとって、明け方近くに空を見とったそうだよ。帰りてぇなぁって前の晩まではようけ言うとったらしいけんど、そんときはそんなことも思いもせんで、ただえらい空が綺麗でな。ぽかんと口を、こう開けて、見とれとったんだよ」
 高祖父が帰りたかった景色は、高祖父自身が見てきた景色ではなかったのだろう。私達の中に刻み込まれている景色の殆どはこの山間の小さな村の中にあり、他のどこにもないのだった。
 高祖父はその時、てっきり気が狂ってしまったのだと思っていた。明け方近くの空は驚くほどに透き通り、視界の端に死んだ男の、土で汚れた手がぶらぶらと風に吹かれて揺れていた。ひっそりとなにもかもが静まり返り、だというのに地上のなにものをも無視しているように悠然と朝は歩み寄ってきていたのだった。
 なめらかに弧を描く空気の中に、それはぷかりと浮かんでいた。ほのかに青い光を当たりにまき散らしていたが、空気を染めるほどには明るくなく、夜に紛れるほどは暗くなかった。ぷかり、ぷかりと似たような青い小さな光が浮かび上がり、引き寄せられるように天空へと登っていく。数はやがて増え、静寂の中をこすれあう光の粒の音だけが満たしてまるで驟雨がやってきたようだった。
 あれは一体何だったのだろう。数百、数千と増えていく光はやがて地上を青く染め、地平線から顔を出そうとする太陽の条光から逃れるように空へと紛れていった。私は思った。あれは、記憶なのだ、と。私達のように人は記憶を引き継ぎはしないが、しかしその思いはどこかに引き寄せられ、いずれ帰っていく――帰っていったのだ。そこに待つ人がいたから。帰りたがっていたから。
(どがして戻ってきたんか……)
 記憶を受け継ぐ私たちは、彼らのように空を泳いで戻るわけにはいかないのだった。だから曽祖父はこの村に戻った。帰りたがっていた高祖父の記憶を連れてこの村に帰ったのだ。
「芋が煮えたな、飯に――」
 ごとん、と土間の方から音が聞こえて私たちは同時にそちらを振り返った。真っ青な顔をした中年男が片手になにか大きな物を下げ、もう片方の手に白い毛皮を引きずって土間を横切っていくところだった。男は滂沱の涙を流し、外聞もなくしろぉしろぉ、と繰り返していた。男が歩を進めるたびに湿った音が聞こえる。
 祖父と私は黙ったままその姿を見つめた。男は土間をよぎり、裏口から出ていった。あとに残るのは濃い血臭だけである――いや、そうではなかった。暗闇の中を滑るように光の粉が通り過ぎていき、一瞬私達を伺うように動きを止める。光はすぐにまた男を追いかけるように出ていったが、それが虫の類でないことは明らかだった。
「……出ぇよったなぁ」
 祖父の声はどこか楽しそうだった。私は急いではきものを突っ駆け、裏口から外を見遣った。
 男はもう川べりを歩いていた。片手に掴んでいるのは老人の首だった。もう片方の手で抱きかかえているのは犬の死骸であろう。男はおんおんと声を上げながら足を引きずって歩いていたが、彼が声を上げるたびに、ぱあっと闇を散らすように光が弾けた。川べりの枯れ木に光の粉がかかり、まるで彼が花を咲かせながら歩いているようだ。私は思わず笑って祖父を呼んだ。祖父は私の隣に立って「かぁ」と感嘆の声をあげた。
 母に呼ばれ振り返った一瞬に、彼らは消えた。炉端においてある包丁に、母は「あんら、また、おじいちゃんがきぃはったんな」と呆れたようにいった。母の耳元をかすめるように光の粒が流れ空気に消えていくのを、私は笑顔で見送った。
 隣の白い犬はまだ甘えるように鼻を鳴らしている。


(2008.3.6)
(2012.7大幅に加筆修正)