絶望という名の光

昔はまさに恋愛で救済されると思っていた私は、実際にその相手を得たとき「この人は自分のことを好きだと言うくらいなのだから私を無限に承認し受容してくれるはずだ」と信じてはばからなかった。結果、相手がその自分の思い込みに沿った行動を取らないと「こんな筈はない」と思い、話し合いという言葉のもとに自分が正しいという意見をぐいぐい押し付け続けた。もともと口下手だった相手は、どんどん無口になっていった。
多分夢見ることが悪いんじゃない

 いい文章だと思った。
 僕は「人は誰も好きになどなれないし、自分もなれないだろう。無限に承認され受容されるということは世界の真理としてありえないはずだから、誰からもそう期待されるわけもなく、もちろん自分も期待しない」と思いながら、初めて「異性」という存在に対峙し、「彼女と彼氏」というややこしい関係に身を置いた。その中でいくつもの言葉をもらって、おそらくその当時は――それなりにお互いに見返りも求めずうまくいっていた頃は、当然のようにお互いを承認し、受容することができるのだと知った。そう思った。そういう幻想を抱いた。希望を、幻想を手にしてしまった。
 「もしかしてできるのではないか?」「人を好きになることもあるのではないか?」「わかってくれるひともいるのではないか?」「ここにいていいと無条件に言ってくれる人がいるのではないか?」「思ったことをそのまま言ってももしかしたらいいのではないか?許されるのではないか?」
 そういう幻想を淡く抱いて、幻想上では裏切られないこともあるのだと、私は知ってしまった。そして弱くなった。


 ないものと思っていればひとは強くなれるのだった。その強さは何人も受け入れないからこその強さであり、それはまた受け入れることのできない狭量さを示しており、外乱に耐えられないという弱さである。得るためには自分が何かすればいい。その対価としてかえってくるものが承認であり、許容である。そういうシンプルな思考である限りは強いし、不安にもならない。ほしければ自分から働きかければよいから。無言のうちには得られないから、働きかけて相手の意向を汲んで的確な反応をして、それでも得られないことが当たり前で、得られるのならば幸運で、しかし自分のリソースが有限なら得られるものもまた有限であるという理論。
 だが、「それ」は外からやってきて、さまざまなものを揺さぶり整合性の取れていた内部を、雑然としたものに変えて去って行った。淡い希望と不確定さだけが残った。
 あれが幻想だったのか否か、いまでもわからないが、多少(いやかなり)いまは押しつけがましいのではないかとは思う。
 幻想を抱いてそれが幻想だったと突きつけられて動揺して、それでも信じたい気持ちがあって、だけどたぶんそれは間違っているのだろう、と理性はささやいている。ひとりでいれば楽だと、誰も信じなければ誰も受け入れなければ、誰かに受け入れてもらおうと思わなければ、そう願わなければ、楽だと、どこかから声が聞こえる。不安になることもさびしくなることもないと、前に戻ればいいだけだと、私は知っている。
 でも、だけど、では、あの感覚はなんだったのか。ここにいてもいいんだと思えた瞬間のあの感情はなんだったのか。その感覚を信じたから、ぐいぐいと押し付けられてくる相手の要求に無限にこたえて、それでもいいのだと思っていた。「だってここにいていいって言ったから」「それでいいといったから」だから、自分も答えるべきだと思った。私が求めていたのは具体的な何かではなく、「ここにいていい」と示してくれること、それだけだったのだった。
 あの時の思いが間違いで幻想だったのか、それともまだ未練でもあるのか、何も思わないのに何も感じないのに、それでもまだ承認だけを求めるのかそのために今後の長い人生を塗りつぶしてしまっていいのか、それほどまでに承認がほしいのか受容されたいのか、飢えた犬のように卑しく。無限なんか求めない、一瞬の幻想で構わない。幻想でもいいからそれを見せてほしい、ほしかった。できればそのまま騙しつづけてほしかった死ぬまで。無限に。そういう矛盾。


 恋愛でも友情でもたぶん何でもいいんだろう。救済されることなんか願ってないと言いながら、願い続けるのだろう。その一瞬だけを願うんだろう。思い入れを持たなくても、距離をおいても、親しくすることはできるし、その中で信頼関係を結ぶことはできる。できてしまった。できることを知ってしまった。承認されるより先に、世界中に拒絶されている感覚をぬぐう前に、私はそういうことを知ってしまった。それでいいんだろうと思っているところを、土台から揺らされてわからなくなった。もう元には戻れないんだ。壊れてしまったら。知ってしまったら。


 パンドラの箱の中に残ったのは希望だったが、それこそ最も邪悪なものだと私は思う。なぜ絶望の中に光をともすのか。それも消えそうな光をともすのか。その光が消えた後に残るのはのっぺりとした平面の闇で、また暗闇の中で目がきくようになるまでには長い時間がかかる。凶暴な光で無理やり隠してあるものをはぎ取って白日の下に曝して容赦なく公正明大に事実を示して見せるその光こそが、最も手にしてはならないものだったのではないか。19歳の夏、私はそれをあけてしまったのだ。


(2008.5.23)
(2012.7加筆修正…しきれなかった…)