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彼の中には他者がいない

 彼は分からないと言われると、背景を丁寧に説明しようとする。僕はたいてい背景は分かってるけど理由かやり方が分からないか、もしくはそれが最適であるかどうかが疑問だと思っているので、彼が説明し始めるとどうやってわからないところを伝えればいいのかと頭を悩ます。
 彼の中には他者がいない。
 彼の中には他者の心を考える装置がない。
 彼の中には他者の考えを尊重したり、それを尊敬する気持ちがない。
 彼と話していると時々、のっぺりとしたまっ平らでとっかかりが全くない、すべすべしたアルミの板が目の前に立ちはだかっているような錯覚を覚える。
 僕は。考える。この人は何を言わんとしているのだろう。この人は何がしたくてしゃべっているのだろう。この人の描いているゴールは何だろう。そしてそれは必要だろうか。ないと困るものだろうか。それをどうやって伝えればいいんだろう。彼のルールの中で、どのボタンをおせば、彼にその信号は届くだろう。彼はそれを理解できるだろう。僕は考える。


 僕は彼は好きではないが、嫌いでもない。彼は、自分が面白いと思うことや、やりたいと思うことから世界を作り上げることに長けている。その世界は精緻で複雑で、しかし細部にわたって神経が張り巡らされていて、まるきり彼自身のようだ。僕はそれが分かるときはすごいと思う。わからないときは困ったなとその世界をこわごわと遠くから眺める。
 その世界の中にはやはり他者はいない。なぜこうなっているんだろう、これをやりたいならほかにもやり方があるのに、と思うときはだいたい彼がそのやり方を試したかっただけのことが多くて、そのやり方を試すために世界の規律をゆがめてしまっていることがある。その世界を解きほぐして理解するには、彼にならなければわからない。それが最善かどうかは、いつも定かではない。彼が言葉を発し、これをしてほしいというときは、彼の中で既に世界は構築されていて、その通り作ることを求められるから、最善であるかどうかは彼の中でもう決まってしまっていて、口を挟んでも彼には届かない。


 たぶん。僕は時々絶望に近い感情に向きあいながら彼の説明を、言葉を聞く。彼にはこころがなにかわからない。他者が何か分からない。だから、彼が他者に作用しようとするときは、定型句やマニュアルを駆使するしかない。
 こういえば、彼女は喜ぶ。こうすれば、彼は代わりに作業をしてくれる。そういうマニュアルが彼の中に大雑把に作られていて、でも彼にとってそれはよくわからないものだからしばしば不完全なままほったらかされている。そして彼は時々誰かを怒らせたり、嫌われたり、よくわからなくて困るなどと言われているけど、なぜそういわれるのかが分からない。
 彼にとって他者は機械と同じなのだ。つまみを30度回転させて、赤いボタンを二回押し、白いボタンを一回押すと、相手はわかったといってくれます。そういうマニュアルを彼はいつも手の中に隠し持っていて、他者とコミュニケーションをとろうとしている。彼の中で、わからないというのは背景が分からないといわれていることに等しくて、背景さえ分かれば自動的にやり方は一つに決まると思っているのだ。だから一生懸命説明する。でも相手は分からないままで、彼はなぜだろうと不思議に思う。
 この機械は応答してくれないなぁ。おかしいな。コマンドが違うんだろうか。前はうまくいったのにどうして今日は受け付けてくれないんだろう。


 彼の言葉がある程度まで来ると、僕はひとつひとつ尋ねる。背景は分かりました。これはこういうことですね。いいですね。うんと彼は答える。
 これをするときには方法1のやり方でやりたいということでいいですね。彼はうんとうなずく。
 でもこういう方法もありますよね。ん? と彼が首をかしげる。それからそのデメリットについて話す。メリットについて僕が言う。最初の方法のデメリットについて聞く。彼はそれにこたえる。
 ひとつひとつそうやって彼の中のボタンを押す。ぴかぴかしていて冷たくて、どれがどれだかよくわからないボタンを一つずつ押す。彼は少しずつ混乱して、頭を冷やすために休憩しなさいという。僕はそうですか? ここまではちゃんと理解できてますよね。今の話の焦点はここですよねという。彼はわかった、疲れてきたから休憩しようと言い直す。話している間、彼はずっと無表情だ。


 彼が頭を冷やしに行くのを見ながら僕は考える。僕はあまりわかってないだけだし、毎回一つずつボタンを押してわかるまで確かめるだけだから構わないけれど、でももう少し人を好きになってもいいんじゃないかなぁ。人は機械じゃないし、言い方によってはむっとすることもあるし、疲れていることもある。彼を嫌いな人もいるし、好きな人もいる。だから毎回同じ手続きを踏んだって同じ答えは返さないのに、どうして変な方向に頑張るんだろう。
 頬杖をついて僕は思う。彼よりずっと大雑把で散漫な世界を持っているかもしれないけど、誰かの世界をだれかの視点から理解するのに長けている人もいるし、簡素で美しい世界を持っていて、すぐに誰かの話を自分の世界に投影して理解することができる人もいる。複雑さや細かさや、そういうあれこれだけで評価できるほどそれぞれがそれぞれの中に持っている世界というのは簡単じゃないのに、わからないのかな。わからないんだろうな。わからない人に期待してもできないものはできないんだよな。僕はまだ一つずつボタンを押していくことしかできないけど、もう少しいい方法を考えるべきなんだろう。

(2010.7.3)
(2012.7加筆修正)