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鋭光

 手を伸ばしかけたところで記憶がよみがえる。対面した相手のさらに後ろで記憶のあなたが手を振る。僕はぎょっとして立ち止まり、それから立ち尽くす。あの記憶のかけらは散り散りに砕け散ってしまったからどこに残っているのか、未だに僕は予期できない。割れたガラスの散らばる床を裸足でそうっと歩いていても時々鋭い切っ先が足の裏を抉る。僕はただ、立ち尽くすことしかできない。
 泣きたくなって僕はあわてて首を振った。僕はもう誰の手も握れないことを知っている。そのあたたかな指がまだ記憶の中にはっきりと残っているから、誰かのあたたかさに触れるたびに鋭い痛みが走り、うめき声が漏れる。
 その一つ一つ、僕が得ることのできなかった、そして欲しいと願っていたいくつもの些細な積み重ねがあの日々の中にはあった。
 誰かに見送られるということ、誰かの庇護の対象になるということ、誰かに心配され、手を差し伸べられ、ただ甘えるということを僕は欲していただけなのだろう。それは僕にとってはひどく優しく甘くずぶずぶに腐っていくような感覚とともに手放したくない強烈な何かだった。それが相手にとっても同じだったと僕は思わない。そこは日だまりではなかったしいつまでも浸かっているわけにはいかない湯の中であることも僕は知っていて、でも引きはがされるのは何物にも代えがたい苦痛を伴ったことも確かだった。あの日から僕は死んでいるし、これから息を吹き返すこともないだろう。夏の空を彩る花火のようにいつかは消えていく一瞬のきらめきだったことを僕はどこかでわかっていた。その色があまりにも鮮やかすぎて忘れられないだけなのだ。

 出会ってしまうことは不幸だ。知り合い、距離を縮めるということは苦痛だ。そしてそれを失った後の世界はただの虚無だ。悲しむことは容易くそして長く長く後を引く。僕は未だに時々ためらって、立ち止まり、そして立ち尽くすしかない自分自身を笑う。教えてほしい。この長い夜を終わらせるために僕は何を目指せばよいのか、わかるものなら教えてほしい。僕に差した一筋の光ははかない思い出になって消えてゆこうとしている。あの強烈なまばゆい夏の日差しも僕はもう二度と得ることはできないだろう。救い出してほしい、ここから。この鼻をつくような濃い闇のにおいの中から僕を。

 こんな暗闇の中にいる僕でも、誰かに光を投げかけることはできるのだろうか。