2012-01-01から1年間の記事一覧

雨、だった。 いつの間に降りだしたのだろうか。ふと窓から外を見ると、白い線が空気を粉々に砕いていた。はじめ、僕はそれが雨だとは思わなかった。図書館の中はひっそりとした静けさに満ちており、しかも僕は耳の中にイヤホンを押し込んでいたから、音が聞…

白夜の異国街

2004年の夏、僕はフランスのパリにいた。パリの16区に宿を取り、毎日バスで出かけた。暑い夏だったがそれでも風は乾燥していて、日陰に入ると驚くほど寒かった。それがパリの夏だった。道を行く人は東京のように早足で、色鮮やかなかばんが日本に比べてかな…

女らしさというたくましさ

僕はまだ十代だった。彼女は僕を見てにっこりと笑った。あら珍しい。女の子が来た。そう言って、男の子と変わらない格好をして無造作に髪の毛を束ねているだけの僕に向かって、彼女は他の誰とも違う笑顔を向けた。僕はきまりが悪くて笑顔を作った。 彼女は若…

夕焼けアイス

目をぐるりと動かして「テンナイデオメシアガリデスカ?」と彼女は言った。言っている途中で一回舌をかんで少し恥ずかしそうにする。僕は微笑を返して、バイトを始めたばかりの高校生なのかな、と思っている。よく日にやけているのは体育会系の部活にでも入…

どこの誰でもない誰かになれない

僕と彼女は和風カフェに入ってわらびもちを食べていた。 大量の黄粉と黒蜜の混ぜ合わさったそれはまるで溶けたチョコレートのようで、僕らは笑った。僕はカメラで笑う彼女をとり、彼女はわざと目を剥いて僕を威嚇した。それからまた二人で笑った。 久しぶり…

彼の中には他者がいない

彼は分からないと言われると、背景を丁寧に説明しようとする。僕はたいてい背景は分かってるけど理由かやり方が分からないか、もしくはそれが最適であるかどうかが疑問だと思っているので、彼が説明し始めるとどうやってわからないところを伝えればいいのか…

うさぎは孤独を知らない

孤独を抱えて眠りにつく。孤独は冷たく滑らかだ。僕がうさぎのぬいぐるみのおなかだか耳だか足だか顔だかがよくわからなくなったころ、眠りは僕の隣で落ち着く。 孤独はぬいぐるみの中までは浸食しない。ぬいぐるみは孤独ではないからだ。 でもかといってほ…

絶望という名の光

昔はまさに恋愛で救済されると思っていた私は、実際にその相手を得たとき「この人は自分のことを好きだと言うくらいなのだから私を無限に承認し受容してくれるはずだ」と信じてはばからなかった。結果、相手がその自分の思い込みに沿った行動を取らないと「…

本という逃避

(略) 不登校になることで逃げられるならはそれ以上の幸福はない。親が不登校になることを理解して、受け入れることができて、それでもなおかつその子に対してあなたは悪くない、といえるのならそれは幸せなことだ。 でも現実的にはそんな親はおそらく少な…

ももさか爺さん

青い煙が空気の中で身をくねらせている。 祖父は寡黙な人である。語り始める前、祖父はたいていタバコに火をつける。そのタバコが半分まで減るころになってようやく重々しく私に桃太郎の話は聞いたことがあるか、と聞く。私は首を横に振り、毎回否の意を示す…

母は東京にはイオンがないという

記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。 父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から十軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父…

手のひらの中で

お金貯めて一括で払えるようになるまで我慢すると言った僕を、彼はとがめるような目つきでみた。斧田さんっていつもそうだよね、という言葉に非難の色を感じても僕は黙って笑う。 こう、なんていうか、思いつきでぱーっと使ったりしないの? と彼は問う。僕…

頑張ることはたやすい

頑張ることはたやすい、と昔書いたような気がする。 頑張ることはたやすい。一生懸命であることは労力を必要としない。諦めないことは造作もない。ただ何もかも忘れればいいだけだからである。それよりも、自分自身のリソースを把握し、正気を維持するために…

発電機関はデンキウナギの夢をみるか

西暦0x2011年、夏。 未曾有の災害と共に発生した、史上最悪と言われる原子力発電所事故により、関東以北では電力危機が生じていた。あらゆる場所で電気が足りないため、経済は縮退し失業率は上昇、被災地復興すらもままならない状況に人々は疲弊し、絶望して…

まずはじめに、息を吸う

すべてを諦めるところから始める。すべてを求めないことからはじめる。全てに嫌われていると思うところから、始める。全てに拒否されていると考える。なにも理解できないと知る。すべての失望と絶望と、諦観の中から始まる。なにも持たない、なにも与えられ…

鴨川の抱く夕暮れ

みてみて!これすっげーおもしろくね?といいながら布団を蹴飛ばす僕に、彼女は呆れたように笑った。そしてなにとはなくしみじみと、君は本当にかわいいなぁ、そういう良さが分かってくれるひとが現れるといいね、と言った。 その頃失恋したばかりだった僕は…

ブレーキも踏めない

薄手のシャツの襟の下に、黒い痣は隠れている。何とはなくそこに触れるたびに、私は深い沼の底にいるような錯覚をして息ができなくなる。 運転免許を取りに行ったのは、大学一年生の夏休みだった。 一括で全て払いきれるほどのお金は溜まっていなかったので…

忘却という防御

忘却がいつから始まったのか、今となってははっきりしない。昨日と同じ失敗をしたらしくひどい罵声を浴びせられながら、父は背中を丸めて大根を切っている。今年に入ってから老けた。みるたびに皺は濃くなっていく。張りつめる空気の間を泳いで庭に下りる。 …

鋭光

手を伸ばしかけたところで記憶がよみがえる。対面した相手のさらに後ろで記憶のあなたが手を振る。僕はぎょっとして立ち止まり、それから立ち尽くす。あの記憶のかけらは散り散りに砕け散ってしまったからどこに残っているのか、未だに僕は予期できない。割…

郷愁にて

ずっと「トカイ」にいかなければと思っていた。 育った町は関東に位置している田舎だった。電車に乗れば、東京までたかだか一時間半か二時間程度の場所だが、それでも私にとっては十分すぎるほどの田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければなら…

帰途

駅に降り立つとむわっとした不愉快な空気に迎えられる。会社がある場所より二度か三度気温が高く、じっとしていても汗がじんわりとにじみだしてくるような湿気を伴った濃密な空気、そして潮の香。海から遠くないこのまちは、夜になると潮の香がきつくなるが…