僕の隣の悪魔

何か悪いことが起こってしまった時に、しっかりと反省できる人は少ないです。サイコパス、というわけの分からないものがいて、それは悪い存在だから仕方ない、という論理があれば誰もが飛びつきます。そうすれば自分が悪かったと思わなくて済むから。
しかし、そういう人間に惹かれてしまったのも自分なのです。社会的地位が高くて、見た目が良くて、雄弁で優しい、そういった表面的な魅力を人間的価値だと勘違いした自分の未熟さなのです。社会的地位も、見た目も、本質的な幸福とは関係がないと思い切れなかった自分の弱さなのです。

本当に大切なものは、月並みですがやはり心の美しさだと思います。それは簡単に分かるものではないし、そのことに満足できるようになるのも時間がかかります。だけど、結局はそこに行き着くのだという気がしています。
沢山の挫折の末に、行き着けるのだと思います。だから、つまらない男に騙されたと後悔することもないです。これも人生勉強のために必要な挫折で、逃げずにまっすぐ向き合えば必ず乗り越えられるものです。いい経験をした、もう同じ過ちは繰り返さないと思えればそれでいい。転んでみて初めて、その道が危ない道だと分かります。何度も転んでやっと、正しい道を知ることが出来ます。転んだことのない人は、危ない道を進み続ける。そして、知らぬ間にサイコパスと呼ばれるようになってしまうのではないでしょうか。
本人達はそんなこと夢にも思っていないでしょう。自分は善良で優しい人間だと信じきっている。

本当はそれが一番恐ろしいことなのだと思います。

なんという名文。

サイコパスについての文章をいくつか読んだけれども、どれも最終的には「あの人たちはおかしいから関わらない方がいい」に帰着するので、「もしかしたら自分もそうなのでは?」と感じる人間にとっては理解を放棄されている感が拭えなかった。しかしおそらく本当にサイコパスだったら、「その通りだ!あれは人間じゃない!だから何をしてもいいんだ!」と思ってしまって言動がエスカレートする。いや、おそらくではなく、本当に。


ここのところエネミースレのまとめばかり読んでいるけれど、読めば読むほど自分は死んだ方がいいんじゃないか、生きているだけで害悪なんじゃないかという思いが強くなる。だからといって別に死にはしないけれど、ただ淡々と未来はあきらめた方がいいんだろうなという思えてならない。
自分たちがどれほど異常でそれがいかに理解されないか(本質的な部分で)というのをまざまざと何例も何十例も何百例も突き付けられるともうぐうの音も出ない。あきらめるしかないのだ。排斥されていくしかないのだ。と。思う以外ない。それでも生きている。死にたくはないから。


僕は、うっぷんを晴らすためにあるいは溜飲を下げるために、エネミーだとかサイコパスだとかモラだとか毒だとか人格障害だとかそういう言葉を吐き出せる側の人間ではないのだ。そういう人にとってそれらの言葉は凶器だ。僕を傷つける凶器だ。でも僕は人間なのだ。傷つけられたら痛いし泣くし、自分自身が知らないうちに誰かを苦しめるのは怖いし辛いし、哀しい。自分が諸悪の根源であり、悪以外の何物でもなく、怪物だと言われ、あるいはその連鎖を断つことは無理だと断言され、生きていくために希望にすがりつこうにもその希望もあきらめざるを得ない。僕は病気だと診断されふさぎこんだ。異常性を理解し意気消沈した。異常だと弾劾され絶望した。そして繰り返し繰り返しその絶望を受け入れるためにその刃で自分を切り刻んでいる。どうせなら何も思わなくてよくなるように。なにも壊さなくて済むように。誰かの大切なものを無駄にせずに済むように。

(2010.3.11)
(2013.4.9 修正)