白夜の異国街

 2004年の夏、僕はフランスのパリにいた。パリの16区に宿を取り、毎日バスで出かけた。暑い夏だったがそれでも風は乾燥していて、日陰に入ると驚くほど寒かった。それがパリの夏だった。道を行く人は東京のように早足で、色鮮やかなかばんが日本に比べてかなり安価な値段でショーウィンドウに並べられていた。
 いつも乗るバス停のそばにゴディバの小さなお店があって、老婆が沈んだ暗い店内の中に鎮座していた。日本にあるおしゃれな雰囲気のそれではなく、小さなさえないチョコレート屋だ。僕は時々そこに入って、せす、あん、せす、とわ、とかたことでしゃべった。老婆は東洋人だと見ると最初は少しいやそうな顔をしたが、だんだん慣れてきて、僕が店に入るといそいそと立ち上がって迎えてくれるようになった。老婆は英語ができなかった。僕はフランス語がほとんどしゃべれなかった。
 じっと気になるチョコレートを見つめていると、彼女はフランス語でなにかぼそぼそと言う。首を振っていたらやめてたほうがいい、ということらしい。これを食べるなんて正気の沙汰じゃないとでも言っていたのかもしれない。うなずくときは大体おいしいもののことが多い。いつもしかめっ面で不機嫌そうな顔をしていたが、中身はそれなりに親切な人だったのだろうか。彫りの深い白人特有のあの表情を僕は解することができない。

 宿の主人も英語はしゃべれなかった。ひどいフランス語なまりの英語で、僕にもわかるような単語で、英語はほとんど話せませんと彼は言った。
 僕はパリジャンなんです。ばりじゃん? ぱりじゃん。ばり? ちがう、バリじゃないパリ。ばひじゃん? ぱりじゃん!
 何度か同じ言葉を繰り返してパリにずっと住んでいるということを意味したいのだとわかったとき宿主と僕はなぜだか大笑いをした。フランス語はほとんどわからない上に英語ですらもおぼつかない僕と、日本語が全く分からず英語は定かでない彼が話すにはジェスチャーと表情が不可欠だった。彼はいつも朝、たっぷりとクロワッサンを振舞ってくれた。コーヒーが苦手な僕に温かいミルクティをゆっくりと入れてくれるのだった。中庭に面した部屋は薄暗く、クーラーがついていないために暑かったがひどく静かで、僕はしばしば窓を開けて暮れてゆく白夜の空を見上げながら、スーパーで買ってきたりんごをかじっていた。

 そういえば宿の前には果物屋があった。果物屋の親父は日本びいきのようで、僕が行くと日本人かとつたない英語で尋ねた。やはりひどいフランス語なまりだった。僕がうぃとこたえると本当にうれしそうに、にほんのくだものがあるとフランス語で言った。はっきりとわかったわけではないけれど、その指の先にあるしなびた温州みかん(そういえば品物はほとんど萎びているように見えた)をみて僕はその言葉の意味を理解した。僕はおもわずわぁと声を上げて笑った。親父は太った体を満足そうに揺らした。僕はその店でマスカットとつめたい水を買った。ペットボトルに貼り付けてある値段シールはなぜか同じ商品でも値段がまちまちで、不思議だった。

 宿のとおりの角のパン屋には英語が少し話せる店員がいた。そのパン屋は申し訳なさ程度に道にテーブルといすをならべて、お茶を飲めるようにしていた。僕がケーキを眺めていると、彼女はここで食べてゆくのかと聞いた。彼女もまた日本びいきだった。
 あなた子供でしょ?違います。大人です。本当に?嘘よ。ちゃんとお金持ってる?あいはぶまにー!
 彼女は笑った。ケーキにちょっとだけ生クリームのおまけをつけて出してくれたから、僕はめるしーといった。カフェとエスプレッソとテがあるけどどれがいいかと言われ、僕はテとこたえた。
 おれ?おしとろん?
 おれ。
 彼女はにっこりと笑った。僕もにっこりと笑った。日陰のカフェは少しだけ寒かった。僕は両手を紅茶のカップであたためながらゆっくりとケーキを食べ、その店でフランスパンを買い、スーパーで野菜をかって、宿に戻った。
 白夜のパリはいつまでも明るかった。

(2010.7)
(2012.12加筆修正)

女らしさというたくましさ

 僕はまだ十代だった。彼女は僕を見てにっこりと笑った。あら珍しい。女の子が来た。そう言って、男の子と変わらない格好をして無造作に髪の毛を束ねているだけの僕に向かって、彼女は他の誰とも違う笑顔を向けた。僕はきまりが悪くて笑顔を作った。
 彼女は若く見えた。かっちりとしたパンツスーツをきて、きびきびと歩いていた。矢継ぎ早にしゃべり、背筋をいつもぴんと伸ばしている。大きな声で笑い、好奇心に満ちた目を輝かせ、親しみを込めてしゃべる。ぼくはばかみたいに口を開けて彼女が嵐のように通り過ぎていくのを見ているばかりだった。


 久しぶりに見た彼女は新聞の中にいて少し体をかしげ、ポーズをとっていた。女性らしいスカートを履き、感じの良い笑顔で笑っている。え、なになに、なにそれ? わぁ、おもしろい、あたしきれい? 彼女の目がそう言っている。僕はその写真を見て噴きだす。何をしているんだと笑う。でもきっと彼女のことだから、どういう思惑でその役を買わされたとしても、それに対して何を言われたとしても楽しそうに笑うのだろうと思った。


 きっと彼女は若い頃は美人だったんだろう。勇ましくて賢くて、愛嬌があって美して、そのことをよく知っている。今だってそんなに年をとっているわけではないけれども、でも彼女は自分が若くないことを知っている。若くなくても居場所があることを知っている。その場所を簡単には剥奪されないことを知っている。だから彼女は好きなことをする。したい格好をする。誰かに何かを言われても気にしないのだ。


 男っぽい格好をしていれば満足する人はいる。あの人は女らしさを武器にしていない、勇ましくてかっこいい、だからよい。私たちは女じゃない、そうであってほしい、まっすぐに顔を上げて女らしさの対極を生きてほしい。そう願う声がある。そうであれと呪う声がある。つつましく質素に地味に装っていることを美徳とする人々がいて、そうするうちにモノトーン以外の持ち物を持つことが怖くなる人がいる。目立つことを恐れるようになる。
 女らしい格好をすると不満に思う人もいる。媚びているようにみえる、ただでなくても大変なのに女らしさにまで気を配らなければならないように思わされるから、だから嫌だと思う人がいる。女らしさに苦しめられる人がいる。そうならなければならないと受け取る人がいる。でも、男らしくしなくても良いのか、と安心する人もいる。

 でもきっと彼女はそういう人達の事を考えているわけではないし気にしていないだろう。したい格好をする、着たいものを着る、やりたいことをする、時々面白そうだからしなを作ってみる、自分が素敵だと思う笑顔の練習をする、綺麗と言われると嬉しいから化粧をする、そういう喜びと、絶え間ない苦難と忍耐の日々。誰かを喜ばせたり驚かせたりするのはわくわくする、その気持を忘れない毎日。彼女は強い心を持っているから、その日常を維持することができる。自分が強く魅力的なことを知っているから、誰かの願いを叶えられないことに恐れたりしない。


 僕はそういう彼女に勇気づけられ、騙されて走ってきたし、これからもきっとそうなのだろう。誰かを思わず走らせてしまうだけの魅力をもつひとはほんとうに少ない。しかもそれを楽しそうにやり遂げてしまう人は一握りもいない。でも誰かの願いを叶えられないことに恐れずにいることは僕にだってできる。無邪気に美しさを求めることくらいなら僕にだってできる。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/101226/edc1012261801000-n1.htm
http://togetter.com/li/83315

(2010.12.28)
(2012.12.16誤字修正)

夕焼けアイス

 目をぐるりと動かして「テンナイデオメシアガリデスカ?」と彼女は言った。言っている途中で一回舌をかんで少し恥ずかしそうにする。僕は微笑を返して、バイトを始めたばかりの高校生なのかな、と思っている。よく日にやけているのは体育会系の部活にでも入っているのだろうか。少し出っ歯気味ではあるけれど、くるくると瞳が動いて溌剌とした表情につい視線が引き寄せられる。そういう子だった。
 僕の注文した品物を揃えながら、彼女は先輩らしき男の人に、ほとんど視線だけでやってもいいか、と訪ねている。男の人がなにか答えて、彼女は無邪気な声を上げる。無駄のない腕がしなやかに動いている。僕はまた少し笑った。


 彼女の声に送られて、僕はアイスを舐め舐め、帰途をたどる。あの夏、赤い夕焼けを仰ぎながら僕は、がんばれがんばれ、とあの子と僕に言い聞かせていたのだった。

(2012.3.6)
(2012.12誤字修正)

どこの誰でもない誰かになれない

 僕と彼女は和風カフェに入ってわらびもちを食べていた。
 大量の黄粉と黒蜜の混ぜ合わさったそれはまるで溶けたチョコレートのようで、僕らは笑った。僕はカメラで笑う彼女をとり、彼女はわざと目を剥いて僕を威嚇した。それからまた二人で笑った。


 久しぶりに会った彼女は、僕がレンズを向けるとにっこりと笑ってピースをした。僕はいちまい、しっかりと撮ってからどうして、と聞いた。どうしてってなにが? と彼女は驚いたように聞き返す。なんでピースするの? 今まであんましなかったからびっくりした。彼女は笑う。
 なんだろう。彼女の声は時々囁くほどに小さくなる。僕と彼女はこういうとりとめのない、害のない、利もない話で何時間も話しあうのが好きなのだった。なんでだろう。もう一度彼女は言って顔をゆがめた。ピースとかしない方がいい? 僕は首をかしげる。どうだろうなぁ。だいたいみんなカメラを向けると変な顔をするか、ピースするか、笑うから、あんまりおもしろくないんだよね。率直な言葉を僕はわざと選ぶ。こっち見ていない顔の方がよいと思う。ほうほうと彼女は老人のようにうなずく。でも、僕はレンズの中を覗き込みながら続ける。あたしはぴーすするよちょうするよ、だって笑顔はひきつるし変顔したらマジでおわってるし、シャッター切るまでの間が持たないし、ぴーすいつとんの!いつとんの!まだ!まだ!とか言ってないと恥ずかしすぎて死ねる。彼女は笑う。あんたのはピースじゃなくて眼つぶしだ、もしくは幼児のブイサインだ。そんなことないよ、ちゃんとピースしてるよ、と僕は言う。彼女はただ笑う。そしてまたなんだろうね、という。
 なんだろう、恥ずかしくなっちゃうんだよね。たぶん、すごい昔の人みたいに写真に撮られると魂がとられると思ってるかそれに近い感覚があるんだと思う。すっごい見抜かれてる、みたいな。だからどこの誰でもない誰かになろうとするんだ。それでみんなピースしたり笑顔になったりする。彼女は少し首をかしげる。僕はそのまま続ける。
 なんていうんだろう、写真をとるのって一瞬だから、その一瞬に何かにじみ出てしまうけど、それは絶対に制御できないっていう、そういう感じ。
 他の誰でもない自分、ではなくどこの誰でもない誰か、と彼女が呟く。僕は唇の端をあげてその言葉を受け止める。でも写真をとるときはそういうどこの誰でもない誰かをとっても面白くないんだよね、愛がもてない。愛がない。愛がない写真はつまらん。彼女は声をあげて笑う。そうか愛か、と笑う。僕は笑ってその言葉を受け止める。首をかしげたまま少しうつむく彼女の視線に先にあるものを想像して、僕はその横顔を美しいと思う。


 隠しきれない自分自身の本性に怯える僕がレンズに映ってぼやけている。おなじように隠しきれない何かが現れる瞬間を見たくて、僕はファインダーをのぞく。その何かを、ほかの人のものなら僕は美しいと思うのに、自分のものには怯えるのだ。
 撮らせてよ、と彼女は言った。僕はいちまいだけだよ、撮るときは何も言わないでと言ってカメラを渡す。彼女は分かったと言って、しばらく膝の上にカメラを抱いている。僕たちはまたくだらない話をする。暑い夏の中で空を仰ぐ。水を飲み、甘いものを分け合う。カメラがその空気の中に溶け込んで見えなくなるころに、彼女は撮ったよと笑って僕にカメラを返す。
 写真の中の僕はうつむいて笑いをかみ殺している。

(2010.8.11)
(2012.7加筆修正)

彼の中には他者がいない

 彼は分からないと言われると、背景を丁寧に説明しようとする。僕はたいてい背景は分かってるけど理由かやり方が分からないか、もしくはそれが最適であるかどうかが疑問だと思っているので、彼が説明し始めるとどうやってわからないところを伝えればいいのかと頭を悩ます。
 彼の中には他者がいない。
 彼の中には他者の心を考える装置がない。
 彼の中には他者の考えを尊重したり、それを尊敬する気持ちがない。
 彼と話していると時々、のっぺりとしたまっ平らでとっかかりが全くない、すべすべしたアルミの板が目の前に立ちはだかっているような錯覚を覚える。
 僕は。考える。この人は何を言わんとしているのだろう。この人は何がしたくてしゃべっているのだろう。この人の描いているゴールは何だろう。そしてそれは必要だろうか。ないと困るものだろうか。それをどうやって伝えればいいんだろう。彼のルールの中で、どのボタンをおせば、彼にその信号は届くだろう。彼はそれを理解できるだろう。僕は考える。


 僕は彼は好きではないが、嫌いでもない。彼は、自分が面白いと思うことや、やりたいと思うことから世界を作り上げることに長けている。その世界は精緻で複雑で、しかし細部にわたって神経が張り巡らされていて、まるきり彼自身のようだ。僕はそれが分かるときはすごいと思う。わからないときは困ったなとその世界をこわごわと遠くから眺める。
 その世界の中にはやはり他者はいない。なぜこうなっているんだろう、これをやりたいならほかにもやり方があるのに、と思うときはだいたい彼がそのやり方を試したかっただけのことが多くて、そのやり方を試すために世界の規律をゆがめてしまっていることがある。その世界を解きほぐして理解するには、彼にならなければわからない。それが最善かどうかは、いつも定かではない。彼が言葉を発し、これをしてほしいというときは、彼の中で既に世界は構築されていて、その通り作ることを求められるから、最善であるかどうかは彼の中でもう決まってしまっていて、口を挟んでも彼には届かない。


 たぶん。僕は時々絶望に近い感情に向きあいながら彼の説明を、言葉を聞く。彼にはこころがなにかわからない。他者が何か分からない。だから、彼が他者に作用しようとするときは、定型句やマニュアルを駆使するしかない。
 こういえば、彼女は喜ぶ。こうすれば、彼は代わりに作業をしてくれる。そういうマニュアルが彼の中に大雑把に作られていて、でも彼にとってそれはよくわからないものだからしばしば不完全なままほったらかされている。そして彼は時々誰かを怒らせたり、嫌われたり、よくわからなくて困るなどと言われているけど、なぜそういわれるのかが分からない。
 彼にとって他者は機械と同じなのだ。つまみを30度回転させて、赤いボタンを二回押し、白いボタンを一回押すと、相手はわかったといってくれます。そういうマニュアルを彼はいつも手の中に隠し持っていて、他者とコミュニケーションをとろうとしている。彼の中で、わからないというのは背景が分からないといわれていることに等しくて、背景さえ分かれば自動的にやり方は一つに決まると思っているのだ。だから一生懸命説明する。でも相手は分からないままで、彼はなぜだろうと不思議に思う。
 この機械は応答してくれないなぁ。おかしいな。コマンドが違うんだろうか。前はうまくいったのにどうして今日は受け付けてくれないんだろう。


 彼の言葉がある程度まで来ると、僕はひとつひとつ尋ねる。背景は分かりました。これはこういうことですね。いいですね。うんと彼は答える。
 これをするときには方法1のやり方でやりたいということでいいですね。彼はうんとうなずく。
 でもこういう方法もありますよね。ん? と彼が首をかしげる。それからそのデメリットについて話す。メリットについて僕が言う。最初の方法のデメリットについて聞く。彼はそれにこたえる。
 ひとつひとつそうやって彼の中のボタンを押す。ぴかぴかしていて冷たくて、どれがどれだかよくわからないボタンを一つずつ押す。彼は少しずつ混乱して、頭を冷やすために休憩しなさいという。僕はそうですか? ここまではちゃんと理解できてますよね。今の話の焦点はここですよねという。彼はわかった、疲れてきたから休憩しようと言い直す。話している間、彼はずっと無表情だ。


 彼が頭を冷やしに行くのを見ながら僕は考える。僕はあまりわかってないだけだし、毎回一つずつボタンを押してわかるまで確かめるだけだから構わないけれど、でももう少し人を好きになってもいいんじゃないかなぁ。人は機械じゃないし、言い方によってはむっとすることもあるし、疲れていることもある。彼を嫌いな人もいるし、好きな人もいる。だから毎回同じ手続きを踏んだって同じ答えは返さないのに、どうして変な方向に頑張るんだろう。
 頬杖をついて僕は思う。彼よりずっと大雑把で散漫な世界を持っているかもしれないけど、誰かの世界をだれかの視点から理解するのに長けている人もいるし、簡素で美しい世界を持っていて、すぐに誰かの話を自分の世界に投影して理解することができる人もいる。複雑さや細かさや、そういうあれこれだけで評価できるほどそれぞれがそれぞれの中に持っている世界というのは簡単じゃないのに、わからないのかな。わからないんだろうな。わからない人に期待してもできないものはできないんだよな。僕はまだ一つずつボタンを押していくことしかできないけど、もう少しいい方法を考えるべきなんだろう。

(2010.7.3)
(2012.7加筆修正)

うさぎは孤独を知らない

 孤独を抱えて眠りにつく。孤独は冷たく滑らかだ。僕がうさぎのぬいぐるみのおなかだか耳だか足だか顔だかがよくわからなくなったころ、眠りは僕の隣で落ち着く。
 孤独はぬいぐるみの中までは浸食しない。ぬいぐるみは孤独ではないからだ。
 でもかといってほかの何かなわけではない。ぬいぐるみには動きも感情も何もないから、ただ孤独が入り込めないだけなのだ。だからあたたかい。
 隣に誰かいても、孤独はぴたりと張り付いている。誰かにも、孤独は同じように張り付いている。氷のように冷たければ僕はそれを排除しようと躍起になるだろうけれども、夏の板の間のように肌に心地よい冷たさだから、僕は孤独をどうにかしようとは思わない。やりきれないひたひたと足元をぬらすさみしさに、僕は誰かの腕につかまったり肩に額をくっつけたりしながら孤独を抱いて眠る。ぐっすりと寝ている人はぬいぐるみに似ている。柔らかくあたたかで、孤独ではない。だから僕は安心して寄り添うことができる。
 眠りかけている人は孤独そのものだ。呼びかければ答えるけれど、けして僕にかまってはくれない。その心は夢の中にほとんど行ってしまっていて、僕を見ていない。僕は極限までさみしくなって、誰かの孤独に侵食される。そばにいるのに、届かない。指を握りしめても腕につかまっても、孤独はどこまでも深まる。相手の分の孤独までが僕を包み込んでしまうから、僕は膝を抱える。孤独はじわじわと僕を侵食し、僕の心をわしづかみにして握りしめる。僕は呻く。耐え切れない冷気が僕を凍りつかせる。人の寝顔を見ながら僕は抱えきれない孤独に困惑する。静けさの中で僕は思う。



 孤独だ。



 なぜ僕はこんなにもさみしいのだろう。
 夢うつつにうさぎをなでながら僕は考える。
 うさぎは今日も柔らかくあたたかい。けして僕の孤独は引き受けてはくれないけれど、ぬいぐるみは孤独ではないから、僕のほうへその分が流れ込んでくることもない。僕は安心して眠りにつく。朝起きればぼくはそいつを枕にしているかもしれない。あたたかくて柔らかいそいつはとても軽いから、僕の腕から飛び出して行ってしまう。

(2010.7.21)
(2012.7加筆修正そしてまだ孤独です)

絶望という名の光

昔はまさに恋愛で救済されると思っていた私は、実際にその相手を得たとき「この人は自分のことを好きだと言うくらいなのだから私を無限に承認し受容してくれるはずだ」と信じてはばからなかった。結果、相手がその自分の思い込みに沿った行動を取らないと「こんな筈はない」と思い、話し合いという言葉のもとに自分が正しいという意見をぐいぐい押し付け続けた。もともと口下手だった相手は、どんどん無口になっていった。
多分夢見ることが悪いんじゃない

 いい文章だと思った。
 僕は「人は誰も好きになどなれないし、自分もなれないだろう。無限に承認され受容されるということは世界の真理としてありえないはずだから、誰からもそう期待されるわけもなく、もちろん自分も期待しない」と思いながら、初めて「異性」という存在に対峙し、「彼女と彼氏」というややこしい関係に身を置いた。その中でいくつもの言葉をもらって、おそらくその当時は――それなりにお互いに見返りも求めずうまくいっていた頃は、当然のようにお互いを承認し、受容することができるのだと知った。そう思った。そういう幻想を抱いた。希望を、幻想を手にしてしまった。
 「もしかしてできるのではないか?」「人を好きになることもあるのではないか?」「わかってくれるひともいるのではないか?」「ここにいていいと無条件に言ってくれる人がいるのではないか?」「思ったことをそのまま言ってももしかしたらいいのではないか?許されるのではないか?」
 そういう幻想を淡く抱いて、幻想上では裏切られないこともあるのだと、私は知ってしまった。そして弱くなった。


 ないものと思っていればひとは強くなれるのだった。その強さは何人も受け入れないからこその強さであり、それはまた受け入れることのできない狭量さを示しており、外乱に耐えられないという弱さである。得るためには自分が何かすればいい。その対価としてかえってくるものが承認であり、許容である。そういうシンプルな思考である限りは強いし、不安にもならない。ほしければ自分から働きかければよいから。無言のうちには得られないから、働きかけて相手の意向を汲んで的確な反応をして、それでも得られないことが当たり前で、得られるのならば幸運で、しかし自分のリソースが有限なら得られるものもまた有限であるという理論。
 だが、「それ」は外からやってきて、さまざまなものを揺さぶり整合性の取れていた内部を、雑然としたものに変えて去って行った。淡い希望と不確定さだけが残った。
 あれが幻想だったのか否か、いまでもわからないが、多少(いやかなり)いまは押しつけがましいのではないかとは思う。
 幻想を抱いてそれが幻想だったと突きつけられて動揺して、それでも信じたい気持ちがあって、だけどたぶんそれは間違っているのだろう、と理性はささやいている。ひとりでいれば楽だと、誰も信じなければ誰も受け入れなければ、誰かに受け入れてもらおうと思わなければ、そう願わなければ、楽だと、どこかから声が聞こえる。不安になることもさびしくなることもないと、前に戻ればいいだけだと、私は知っている。
 でも、だけど、では、あの感覚はなんだったのか。ここにいてもいいんだと思えた瞬間のあの感情はなんだったのか。その感覚を信じたから、ぐいぐいと押し付けられてくる相手の要求に無限にこたえて、それでもいいのだと思っていた。「だってここにいていいって言ったから」「それでいいといったから」だから、自分も答えるべきだと思った。私が求めていたのは具体的な何かではなく、「ここにいていい」と示してくれること、それだけだったのだった。
 あの時の思いが間違いで幻想だったのか、それともまだ未練でもあるのか、何も思わないのに何も感じないのに、それでもまだ承認だけを求めるのかそのために今後の長い人生を塗りつぶしてしまっていいのか、それほどまでに承認がほしいのか受容されたいのか、飢えた犬のように卑しく。無限なんか求めない、一瞬の幻想で構わない。幻想でもいいからそれを見せてほしい、ほしかった。できればそのまま騙しつづけてほしかった死ぬまで。無限に。そういう矛盾。


 恋愛でも友情でもたぶん何でもいいんだろう。救済されることなんか願ってないと言いながら、願い続けるのだろう。その一瞬だけを願うんだろう。思い入れを持たなくても、距離をおいても、親しくすることはできるし、その中で信頼関係を結ぶことはできる。できてしまった。できることを知ってしまった。承認されるより先に、世界中に拒絶されている感覚をぬぐう前に、私はそういうことを知ってしまった。それでいいんだろうと思っているところを、土台から揺らされてわからなくなった。もう元には戻れないんだ。壊れてしまったら。知ってしまったら。


 パンドラの箱の中に残ったのは希望だったが、それこそ最も邪悪なものだと私は思う。なぜ絶望の中に光をともすのか。それも消えそうな光をともすのか。その光が消えた後に残るのはのっぺりとした平面の闇で、また暗闇の中で目がきくようになるまでには長い時間がかかる。凶暴な光で無理やり隠してあるものをはぎ取って白日の下に曝して容赦なく公正明大に事実を示して見せるその光こそが、最も手にしてはならないものだったのではないか。19歳の夏、私はそれをあけてしまったのだ。


(2008.5.23)
(2012.7加筆修正…しきれなかった…)

本という逃避

(略)
 不登校になることで逃げられるならはそれ以上の幸福はない。親が不登校になることを理解して、受け入れることができて、それでもなおかつその子に対してあなたは悪くない、といえるのならそれは幸せなことだ。
 でも現実的にはそんな親はおそらく少ない。学校にいっていれば問題ないと考える親は多いだろう。勉強してさえいればいいと思ってしまうのだ。面倒事はないほうがいい。私は子供いないし、そのことについて責める気はない。私も行けっていうかも知んないし気づかないかもしれないし。
 でも、そういうとき「学校に行かない」という選択肢は選べない。でも現実に学校に行くといじめられる、その場にいくと傷つけられる、そういうことがわかっている。そういうときにどうするか。どうやって逃げ出すか。
 まず一つ目。なにか別のコミュニティに属す。習い事とか塾とかなんでもいいけど、そこではそこでの友達がいたり信頼できる大人がいたりとかして、それで救われるかもしれない。「いうやつが馬鹿なんだよ、あなたは悪くない」といってくれる人がいるかもしれない。できれば現実世界の関係がいいとは思う。言葉がなくても伝わるものがあるような関係がいいと思う。「学校」というコミュニティとは別のコミュニティを探す。それがひとつの手。
 でもそれが見つけられなかったらどうするか。特に小学生の小さいうちは家と学校くらいしかいくところはない。お金もない。塾にもあまり通わない(通う子はいると思うが)。親によっては友達とも遊ばせず学校から帰ってきたら家にいるように強要するのだっているから*1そうなると逃げ場はない。家でも学校でも傷つけられている子供に逃げ場はない。
 そういうとき私は「本を読め」*2という。


 教育的な意味で言うのではない。本を読めば世界がかわるといいたいのでもない。
 「本を読む」という行為は、だれがみても「本を読む」という行為だ。何かしている、というポーズをとることができる。
 また、本を読むという作業は音がほとんど出ない。本に没頭することで周りを消すこともできるし、本に没頭して音を出さないことで周囲はその子供を忘れ去ることができる。存在を消すことができる。
 さらに学校には必ず図書室がある。本は無料で借りれる。お金がかからない。持ち運びができる。どこでも読むことはできる。本をよむことで物理的に時間を消費することができる。それがどんな本であっても。
 それにたいていの人間は「本を読む」という行為に対して悪いイメージを抱かない。子供が勉強してたり本を読んでいて悪く言う人はあまりいない*3。だから傷つけられている子供は、本を読むという行為によって自分を正当化することもできる。


 あとひとつ、文章を読むといいことがある*4。本の中には別の世界がある。いろんな人間が出てくる。書いた人の世界がこめられている。今属している世界とは別の世界が、手のひらの中に開けているのだ。もし本に没頭することができるのであれば*5、知らない風を感じることができる。周りの大人は誰も言わないようなことをいってくれる人がいる。もしかしたら「あなたは悪くない」といってくれる文章に出会うかもしれない。少なくとも本の数だけ別の世界がある。そして読んでいる間はあなたはその世界に属することができる。その世界は虚構であるが、でも確かに存在するのだ。


 誰もあなたの心の中にまでは入ってこれない。誰もあなたの心の中の世界を踏みにじることはできない。そしてあなたはどこまでいってもあなた自身からは逃げられない。物理的に逃げ出すことが不可能ならば、精神的な世界に逃げ込むのも手だ。そこには誰も来ない。誰も入れなくていい。誰にも見られない。誰を嫌ってもいい。何を思ってもいい。誰もあなたのことを傷つけたりはしない。
 心は自由だ。もし心までも自由にならなくなったら、それはあなたがあなた自身を傷つけているからだ。狭い世界の中に自分を押し込めようとしているからだ。でも今目の前にある現実の世界がすべてではない。だからそんな狭いところに無理に収まることはない、窮屈な思いをする必要なんてない。

(2006.11.11)
(2012.7一部修正)
とういかわかいなー

*1:その多くの場合虐待が疑われるが

*2:文章を書くこともいいと思うが、形として残るとあとでそれをねたにまた傷つけられる恐れがあるのでとりあえずは勧めない。思うことと書くこととの間には非常に深い溝が存在していると思う。簡単に飛び越えることはできるけれど

*3:たまにいるが。勉強してさえいればいいとでも思っているのかとかいうやつが

*4:本に限ったことではなく文章というもののもつよさだが、ここでは本ということにする

*5:慣れればできるが。毎日毎日本ばかり読んでいると本を読む能力はものすごい上がる。私はありとあらゆる本を読んだ。幼児書も児童書もライトノベルも純文学もノウハウ書も専門書も聖書も神曲も目の前にあれば読んだ。意味がわからないものも多かったがなんとなく意味をつかむコツは身に着けた